1年前に生まれた次女。
産まれたときは832gでした。
誕生の時の物語はこちらをどうぞ。
この記事はその続編です。
誕生してすぐに次女はNICUへ運ばれました。
医師から聞かされた話は、とてつもなく重たいものでした。
まずは、3日間が山場。
そしてその後も長い戦いになる。
今は安定しているがいつ何が起こるかはわからない。
そしてこの先何が待ち受けているかもわかならない。
脳の障害、発達障害のリスクもかなり高い。
覚悟はしていましたが、一生懸命産まれてきた娘を前にして聞くのはとても辛いものでした。
しかし、まだ起こっていないことを思いながらくよくよしても仕方ありません。
まずは3日。
山場の3日と言うのは、
10%程度の確率で脳出血がおこる。
と言うものでした。
10%
医学でそれがいかに大きな数字かは私たちは良くわかっています。
降水確率とは違います。
10人に1人です。
クラスが40人いたら、そのうち4人です。
サッカー部の人数くらいです。
祈り続ける72時間。
生きた心地がしません。
3日経ちました。
脳出血は起こりませんでした。
そして娘は元気でした。
人工呼吸器に呼吸は助けられていますが、今のところ順調。
その3日の間に、娘の名前が決まりました。
無理やり夏に生まれてきた娘。
そして元気に育ってほしいという思いを込めて、「夏」という字を入れました。
それから2週間くらいは順調でした。
少し母乳を飲めるようになりました。
人工呼吸器の補助も少しずつ減らし、自分での呼吸が増えてきました。
お腹の中にいたときに、肺を育てる薬を頑張った甲斐がありました。
看護師さんからも、
「こんなに小さいのに、びっくりするくらい順調ですよ」
と毎日言われました。
その言葉が妙に怖かったのを覚えています。
「何か起こるんじゃないか・・・」
何か起こりました。
ある日、主治医から、
「ナトリウムが少ないです。ちょっとナトリウムを足す点滴を入れました。心配はないですよ」
と言われました。
心配がないと言われましたが、それが全ての始まりでした。
そこからは次から次へと、いろいろなことが起こりました。
ある日、急に元気がなくなり、心拍が弱くなりました。
アレルギーがあるのかもしれない。
ということで、その時母乳に加えて栄養価の高いミルクを飲んでいましたが、
母乳のみに変わりました。
しかし、翌日母乳のみでも状態が良くありません。
母乳もストップしました。
アレルギー用のミルクになりました。
点滴の栄養も併用します。
その1週間くらい後、
急に容態が悪くなりました。
感染症です。
グッタリしていました。
泣きません。
動きません。
抗生物質が投与され、髄液検査がされました。
髄膜炎にはなっていませんでしたが、敗血症です。
産まれて約1か月の時でした。
体重はまだ900g程度でした。
その時は知る由もありませんでしたが、そこからは一進一退の長い戦いでした。
少し栄養を進めて、少し大きくなる。
するとまた敗血症。
少し良くなったと思うと、すぐに後戻り。
「これで95%の子はうまくいく」
と医師に言われる事が、ことごとくうまくいきませんでした。
栄養が進まない、繰り返す敗血症。
これらのことで肝臓はどんどんダメージを受けていました。
それを繰り返し、2か月が経過しました。
主治医から告げられました。
「肝臓の数値が上がってきています。このまま栄養が進まなければ、肝臓の状態が悪くなります。これから1か月が勝負です。もし1か月で状況が好転しなければ、命も危ないと思います」
愕然としました。
小さく生まれて来て、一生懸命生きていて、いろんな痛いことも苦しいこともがんばってきて、
そんなことある?
変わってやりたい。
本当にそう思いました。
毎日そう思いました。
自分が落ち込んでいてはいけない。
そう思うのですが、どうしても落ち込みます。
毎日仕事をとりあえずこなして、病院へ直行し娘に会う日々。
一生懸命頑張っている娘を見て、自分も頑張らないとと思う。
しかし、家に帰るとどうしても良くないことを考えてしまいます。
落ち込む。不安。眠れない。
「娘が生きている」
その事実だけが私たちを何とか奮い立たせていました。
1か月たちました。
少し栄養は進んだのですがまた敗血症を起こします。
「状況は悪くなっています。」
医師にそう告げられました。
「次、感染症を起こしたら本当に命が危ういです」
わかっています。
でも受け入れることなんてできません。
涙が溢れます。
産まれたときの涙とは違う涙。
不安と絶望が家族を支配する中、
救ってくれたのはいつも元気な長女でした。
無邪気に遊んで遊んでと言ってくる長女。
長女と遊んでいる間だけは不安感が減るのでした。
仕事は何とかやっていましたが、
妻からの連絡を待ちスマホを気にする毎日。
今日はどうだったかな。何か悪いことが起こってないかな。
昼過ぎに来る妻からのLINE。
開封するのが怖い。
自宅でも様々な情報や論文を求めてインターネットの検索をする毎日。
Googleの検索履歴は、娘の病態に関するワードで埋まりました。
季節はいつの間にか秋から冬になりました。
肝臓の状態は悪くなり、多発骨折が見つかりました。
ビタミンDの合成ができていないのが理由の様です。
恐れていた肝不全の兆候が表れ始めたのです。
しかし、絶望の中に一筋の光が差し込みました。
国内未承認薬を海外から取り寄せて使う提案をされました。
非常に高額でした。
でも娘の命には代えられません。
私たちは即答でした。
「使います」
効果が出るのは60-70%程度だという事でした。
恐らく、自分の病気だったら使っていないと思います。
それが医学の世界では低い数字だという事がわかっているからです。
様々な手続きを経て、1か月後お薬が届きました。
薬は2か月分購入しました。
つまり、2か月で結果が見えるという事です。
その間にもまた感染症と敗血症をおこしました。
娘は耐えました。
繰り返す敗血症。
ダメージは大きく、だんだんと回復が遅くなりました。
それでも、未承認薬と点滴栄養のおかげもあり、少しずつ大きくなりました。
そして少しずつ発達もしてきました。
目で人を追うようになりました。
私たちのこともわかっている様子でした。
毎日毎日毎日毎日、病院へ通いました。
札幌へ出張だった日も、空港から病院へ直行しました。
病院の医療スタッフの皆さま、家族、職場の人たち、
そして一緒に戦っている他の子とその家族。
みんなの支えで1日1日を乗り越えていきました。
クリスマスを迎えました。
そして年明けを迎えました。
ことごとく初期の治療はうまくいきませんでしたが、
未承認薬の効果は絶大でした。
肝臓の数値は良くなっていき、ミルクもだいぶ飲めるようになりました。
そして、見違えるように大きくなっていきました。
世の中に新型コロナウイルスという言葉が出てきた頃、
ついに3000gを越えました。
そして点滴栄養を卒業しました。
点滴栄養に救われましたが、点滴が感染症のリスクになっていたのも事実です。
そして、2月。
退院が決まりました。
高額なアレルギー用ミルクしか飲めませんでしたが、それでも飲めるのです。
本当にうれしく、退院日に病院に向かう時は感慨深いものがありました。
しかし・・・・
その車の中で病院から電話がかかってきました。
「今日退院ができません。詳しくは病院で話します」
不安と絶望が再び。
病院へ着くと、娘は元気でしたが、血液検査の結果が悪かったのです。
肝臓の数値が大幅に上昇していました。
入院は継続され、治療を行うことになりました。
命が助かったと思った矢先です。
私たちの気分はどん底でした。
退院を楽しみにしていた長女も、祖父母もみんなで悲しみました。
でも娘は生きています。
一生懸命生きています。
一番頑張っているのは娘です。
私たちが折れてはいけません。
また長い戦いが始まりました。
私たちにとってもっとも辛かったのは、
娘の病態が「よくわからない」状態でここまで来ていたことです。
アレルギーなのか、先天的な病気があるのか、
小さく生まれて成長が遅いだけなのか、
病名も確定していません。
そのため、何かを試し、それによる反応を見て方針を決める。
というような治療プログラムでした。
そして、血液検査の値に私たちも医師も一喜一憂しました。
血液検査の値が悪くなると、ミルクの量を減らされました。
それに伴い娘はどんどん痩せました。
そして、再び点滴栄養が開始されました。
国内にも新型コロナウイルスが広がってきた頃です。
案の定、娘は感染症をおこしました。
細菌感染症です。
体重が減ったこともあり、体力がなくなってきていた娘は、
感染症と敗血症からの回復が非常に遅くなっていました。
私たちは、本当に「次は危ない」と思いました。
専門の病院に転院しようと考えていることを医師に話しました。
医師のチームは信頼していたのですが、娘の命に手段は選べません。
転院すると遠くに行くことになり、しばらく家族が離れ離れになるけどそれも覚悟しました。
すると医師はセカンドオピニオンの話をしてくれました。
そして私たちは迷わずセカンドオピニオンを聞きに行きました。
緊急事態宣言が出る前日だったと思います。
今私たちがコロナウイルスに感染するわけにいかないので、
遠くまで車で行き、病院以外寄らずに帰りました。
専門医の見立ては意外なものでした。
「大丈夫だよ。血液検査に振り回されずに、この数値だけ見ればいいよ。ギリギリだけど大丈夫だよ」
そして治療方針を教えてくれました。
本当に行動にうつして良かった。
率直な意見を言ってくれた専門医に感謝。
そして詳細なデータを包み隠さずに報告してくれた主治医にも感謝。
セカンドオピニオンの結果を持ち帰り、主治医の方針も変わりました。
それからも細菌感染症をおこしました。
山あり谷ありでしたが、段々と体重も増えてきました。
4キロ、5キロ・・・・
体重が増えると、笑うこともおしゃべりも増えてきました。
髪の毛も。
頸も座りました。
そして6月末。
再び栄養のための点滴を抜きました。
感染症のリスクが減ります。
ここまで大きくしてくれてありがとう。
しかし、もう二度と敗血症は嫌です。
この1年、本当に長かった。
長い闘いになると思いましたが、1年になるとは思いませんでした。
山あり谷ありでしたが、何とか乗り越えられました。
一緒に戦っていた友達がどんどん先に元気になって退院していきました。
一緒に戦っていたお友達を天国に見送ったこともありました。
娘たちの健康以外何も望まない。
そう思いましたが、欲が出てきました。
幸せな人生を歩んでほしい。
そしてそれを見届けたい。私も健康で長生きしなければ。
自分の価値観も変わりました。
家族4人で一緒に暮らす。
ただそれだけのことをずっと望んだ1年でした。
ついに、今年の七夕の日。
娘が退院することができました。
体重は6キロを超えていました。
子熊のように太りました。
長女も大喜びで大騒ぎです。そんな日常はまた報告します。
お世話になった先生や看護師さんたちから盛大にお見送りを受け、
手術室とICUから出たことがない娘は初めて外の空気を吸いました。
病院を出た時、朝に降っていた大雨は止んでいました。
そして今年はじめてセミの声を聞きました。